その日、約束した時間の10分前にダンデは到着した。バトルタワーからナックルジムまでタクシーを使ったので、迷わなかったらしい。
「久しぶりだな、キバナ」
ガラル地方のトレーナーの頂点に立っていた男の笑顔は、まるで今日の天気のようにカラッと晴れていた。
「打ち合わせが終わったらポケモン勝負をしようぜ」
「当たり前だ。オマエをそのままタワーに帰すわけないだろうが」
ボールの中のポケモンたちも、待ちきれないとばかりに声を上げる。キバナと同じで、今日こそこの好敵手から勝利をもぎ取ってやろうと張り切っているのだ。
「キミと最後に勝負をしたのはいつだった?」
「さあ。スタートーナメントが最後か。2ヶ月くらい前だろ」
「一度はタワーに来てくれ」
「行きたいのは山々だがジムリーダーも忙しいんだぞ?」
応接間へ移動し、2人はテーブルを挟み向かい合わせに座った。ダンデは鞄から書類一式を取り出す。
「よし。まずは仕事の話からだぜ」
「ああ。オマエがわざわざ直接持ってくるからには、何か面白いイベントでも思いついたんだろ」
ほんの数ヶ月前までユニフォームを着てガラル全土を盛り上げていたこの男は、今や表舞台から身を引き、トレーナーたちを陰ながら支える役目に就いた。フォーマルな服装に身を包み、まるでやり手のビジネスマン風の、ともすれば紳士然とした態度に、キバナは未だに慣れることができなかった。
(変わったよな、色々)
世の中は普遍ではない。だというのに、キバナはずっとダンデがチャンピオンであり続けていると思っていた。
チャンピオンの座を奪ったのは、キバナではなかった。自分より幼いが、自分より強いトレーナーだった。
(オレさまが倒したかった)
今更過ぎたことを言っても仕方ないが、やはり悔しさというものはある。引きずらない性格だとキバナは自負していたが、長年「打倒ダンデ」でやってきたので、気持ちがまだ、ほんの小さじ1杯分くらい追いついていないらしい。
周りは変わっていくのに、自分だけ取り残されているのではないか?
脳裏に過ぎった考えをすぐさま打ち消す。
(そんなわけないだろ。ライバルが増えた。打倒ダンデ。打倒ユウリ。壁は高ければ高いほど燃える)
それに、今はこんなことを考えている場合ではない。仕事の話だ。目の前の書類に意識を集中させる。
「それで、今回やりたいことなんだが」
「おう。どれどれ」
ナックルシティにある宝物庫に絡めたイベントをやりたいとのことだった。なるほど、これはナックルジムのジムリーダーの協力が不可欠だ。
今までこういったものはローズ前委員長や、秘書のオリーヴが完璧なものを提出してきた。口を挟む余地すらない。「あなたは何も考えず参加すればいいだけ」といったものが透けて見えていた。
だが、ポケモンリーグの委員長がダンデに交代してからはどうだろうか。彼が今まで培ってきたトレーナーとしての経験がイベントに反映されているように思える。人間もポケモンも、全力で楽しめるように工夫が凝らされている。
「意見を出すならひとつ、2つ、いや……ちょっと待て。今、紙に書き出す」
「書き出すのはいいんだが、5つくらい増えているじゃないか。だってオマエ、これ予算どうするんだよ。見合わないぞ」
「それは、そうだな。足りない分はオレのポケットマネーからで」
「ダメだろ」
ああでもないこうでもない、と議論は続く。途中、コーヒーを持ってきたリョウタを巻き込んで、キバナとダンデはイベントの詳細を詰めていった。
***
時計の短い針が1を指し示した頃。ようやく諸々の目処がついた。
「分かった。一旦持ち帰って、指摘箇所は再度検討ということで」
「了解。まずはオマエ、予算を見直せ。あと、オマエが迷子になる時間も見積もっておけ」
キバナは冷めきったコーヒーを啜った。予定の1時間くらいオーバーしているが、「やるだろ、勝負」「もちろん」とすぐに返事がくる。
「すぐにやろう。今すぐやろう」
「落ち着けよ。まずはランチだ。ポケモンもオレたちも腹ごしらえだ」
バンバドロを宥めるような仕草でダンデに待ったをかける。タワーオーナーになってもこういうところは変わらないようだ。まず何よりもポケモンと、ポケモン勝負を優先してしまうところが。
「何を食べる? デリバリーの方がいいか?」
「オレは何でもいい。ポケモンたちの食事は持ってきている」
「ダンデ、自分の分も持ってこいよ」
やっぱそこは変わってないな、とキバナは思わず口角を上げた。
「じゃあ、リョウタか誰か、ジムトレーナーに頼んでみるか」
部屋を出るとちょうどヒトミがいたので、今日のランチはデリバリーにすると伝えた。
「他に昼がまだの奴らに声をかけておいてほしい。オレさまが奢るから」
「承知しました、キバナ様。ちなみにご希望のお店は?」
「最近デリバリーを始めたあの店がいいな。ちょっと待ってくれ」
サイトのメニューを開き、ヒトミにオーダーを伝える。ダンデには好き嫌いやアレルギーがないらしいので、彼が好みそうなものをチョイスした。
「承知しました! あとでお届けしますね!」
「よろしくな」
部屋に戻ると難しい顔をしたダンデがいた。顎の下で手を組み、目の前のテーブルを凝視している。
「どうしたんだよ、急に」
先程まで子どものようにワクワクしていたというのに、急にスイッチが切り替わったかのように大人しくなっている。
ダンデは視線だけキバナに向け「そういえば、ひとつ訊きたいことがあるんだが」と切り出した。
「訊きたいこと?」
「ここで、メリアが働いているだろう?」
「ああ。うちの事務員だぜ。それがどうかしたか」
嫌な予感がした。ダンデの口からメリアの名が出てくるということは、間違いなくいいことではないだろう。少なくとも、キバナにとっては。
「彼女の手を借りたい」
キバナは天を仰いだ。
(あー、ほらやっぱりな)
見事、予感は的中した。
「戻ってきてほしいんだ、彼女に」
***
メリアはマクロコスモス系列の企業から、ポケモンリーグ運営部へ異動してきた人物だ。
その八面六臂の活躍から、前リーグ委員長の秘書に認められているのだとか。
そんな彼女がナックルシティに異動してきたのは、人員確保のためである。事務員の募集をかけても面接に来るのはキバナ目当ての人間ばかり。採用後、トラブルになるのは目に見えていた。
仕事とプライベートを分けフラットに接することができ、かつ事務仕事など煩雑な手続きのノウハウがある。そういった理由で選ばれたのがメリアだった。
つまり、彼女は一時的な職員。派遣と同じだったことを、キバナは思い出していた。
「実はリーグとバトルタワーの人手が足りないんだ。産休・育休取得者、退職者が同時期に重なってしまってな。ニャースの手も借りたいくらいだと事務員たちから悲鳴が上がっていて……」
「リーグとオマエのバトルタワーって人員が跨っているのか? リーグ本部の運営からタワーに、みたいな異動があるんだな」
「委員長と兼任しているから、分ける必要なもないだろ? まとめる長が同じなんだから」
「そういうもんか」
キバナの頭の中に人件費という単語がよぎったが、敢えて口には出さなかった。
「話を戻すと、新規採用で何人か雇ったんだが、業務をきちんと教えられる人間が少ないんだ。リーグ委員長がオレになるにあたって、辞めた人間は少なくなかったから」
ダンデはいつものように屈託のない笑顔を見せる。
(おくびにも出さないが、こいつも苦労してんだよな)
ダンデがリーグ委員長になった際、リーグの人員が一時的に減ったことを人伝に聞いた。
確かにダンデはポケモントレーナーの頂点に立っていた男だ。しかし、リーグ委員長としての外交や営業、そして、タワーオーナーとしての経営手腕は如何ほどのものなのか?
長年ガラルを支えていたのはローズだ。その代わりが、ポケモン勝負が強いだけの男に務まるのか? そういった不安があったのだろう。
「産休・育休取得者が出たから、更に教育役が不足してしまって困っているんだ。メリアの経歴を知っているだろう? 彼女を一時的に貸してほしい」
「事情は理解した。ちなみにどれくらいを想定してんだ?」
「2週間」
ビシッと目の前にピースサイン――いや、かつてのトレードマーク、リザードンポーズ時の指2本が突きつけられる。
「メリアには悪いが、2週間で新人たちをオレのリザードン並みにしてほしいんだ」
「オマエのエースにぃ? 随分無理難題を突きつけやがる」
キバナとしてはダンデに協力してやりたいところだが、
(よりによってメリアかよ!)
今一番気になっている人物をダンデの下へ送るのは癪だった。【じだんだ】を踏みたいほどに。
(メリアは優秀だ。分かる。ダンデがメリアを選ぶのも納得だ)
メリアは臨時的にナックルジムの事務員になっているだけ。ダンデのひと声で元の職場へ戻ることも、十二分にあり得ることだ。
けれども。
(納得したくねえ。だってメリアは、もううちの、ナックルの、オレの)
――オレさまのものだぞ?
懐に入れたものはけっして逃さない。仲間も宝も。一度手中に収めたら、二度と手放すことはない――まるで、ドラゴンのように。
(嫌だなー。本音は嫌だ。気に食わねえ。が、それは個人的な感情だ。これは仕事の話だ)
理性と本能が殴り合いの喧嘩をするまでもない。キバナはふうぅ、と深い溜め息をつき「うちの繁忙期も終わっているから、いいぜ」と答えた。
「ただし、メリアに訊いてみてからにしろ。本人が拒否したら諦めてくれ」
「分かった。もちろん、彼女の意思は汲む」
その時、タイミングよくヒトミがランチを持って来てくれた。最近ガラルに新規オープンした、パルデア地方のサンドウィッチ店のものだ。
前より些か食事スピードが落ちたダンデとランチを食べ終え、いよいよスタジアムへ移動する。
これからダンデとポケモン勝負だ。
(今日こそ勝つ)
気分をポケモン勝負へのそれへと切り替える。闘志を燃やす。己を奮い立たせる。ポケモンたちのコンディションもバッチリだ。相棒のジュラルドンがボール越しに鳴いた。
「っし。ダンデ、負けないからな」
「いい勝負、期待してるぜ!」
子どものように笑うダンデ。
しかし、そこに待ったをかけるようにレナに呼び止められてしまう。
「キバナ様! トラブルです!」
「トラブル?」
一体何があったのか。
先にスタジアムへ行くようダンデに伝え、キバナはレナの後を追う。
「で、何があった?」
「それが……、メリアさんがキバナ様のファンの方に絡まれていまして」
「メリアがオレさまのファンに?」
微かにうなずくレナ。
「はい。キバナ様に会わせてくれと騒ぎ立てた上に他の方への迷惑行為があったので注意をしたんです。そうしたら逆上してしまって……。メリアさんとリョウタが必死に止めていますが、場が収まりそうになく……」
「分かった。それはオレさまが行くべきだ」
先に行くと断って、キバナはレナを追い越した。長い脚を駆使して現場に到着したところ、金髪の女性のヒステリックな叫びが耳に飛び込んでくる。
そして、
「――あなた様はジムリーダーを勘違いしていらっしゃいます。確かにガラルのジムリーダーは他の地方に比べて特殊ですが、彼はアイドルでも芸能人でもありません。あの方はポケモントレーナー。ポケモンと共に戦う強い人です」
淡々と、しかしいつもより熱の篭った口調で弁舌を振るうメリアの姿があった。
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