幕間:眠れまで傍にいるね

 1日の終わり。夜の帳が降りてゴーストタイプのポケモンたちが活発になる時間。

 ポケモンたちへの手入れを済ませ日々のルーティーンをこなしたキバナは、意気揚々とベッドへ潜り込んだ。

 キャンプを前日に控えた子どものように目を爛々と輝かせ、スマホロトムで動画サイトを開いた。今日はマリチマがASMRのライブ配信をする日。リアタイ視聴はファンの義務。

 キバナはASMR視聴に特化した専用イヤホンを装着し(先日SNSでプロモーションが出ていたので即購入した)、目を閉じてその時を待った。

 トコトコトコトコト。
 両耳から心地良いタッピング。
 マリチマの週1ASMR配信が始まったのだ。

『こんばんはー! いつも来てくれてありがとう。今日も1日お疲れ様。いっぱい、いーっぱい頑張ったね』

 右耳から囁き声。労いの言葉が染み入る。

『今日も癒されていってくださいね。寝落ちしても良いんだよ』

『じゃあ、おやすみなさい』

 トコトコトコトコト、トコトコトコトコト。

 軽快な音が一定のリズムで紡がれる。右耳から左耳、左耳から右耳へ、音が移動していく。

 キバナはくすぐったさを覚えて、仰向けから横向きに体勢を変えた。前頭葉、側頭葉など脳のどこがどの名称なのか忘れてしまったが、耳の近く――頭の後ろの部分からじんわりとした何かがこみ上げてきて、キバナに快の感情をもたらした。

(まだ眠らない……、眠ってやるものか)

 赤ちゃんのようにぐっと縮こませ、大きく息を吸う。マリチマのタッピングは、料理のフルコースならば前菜。物語ならば序章。まだ睡魔に屈するわけにはいかない。

『じゃあお次は――マッサージ、してあげる』

 新しいマッサージジェルを買ったんだ、と囁きながらマリチマは容器を軽く叩いた。続いて蓋を回すようなカチャカチャという音が聞こえてくる。

『お耳のマッサージ好き? ふふ、ありがとうございます』

 誰かがコメントをしたのだろう。マリチマはASMRの配信中、コメントやスパチャに反応すれど名前はけっして読み上げない。皆を平等に扱いたいから、だそうだ。

 また面白いことに、マリチマのASMR配信は本気で寝落ちしたい人たちが聴きに来ているらしく、コメント自体が少ない。「この配信はあくまで眠るためのものだから、雑談はあまりしないようにしてるの。あ、たまに出る独り言は許してね」というのはマリチマの弁だ。

『手によくマッサージジェルを馴染ませて、と……』

手をすり合わせる音。続いて、ジェルを塗り広げる音。

『それじゃ、やっていくね』

 両耳を優しく包まれたような感覚がして、きゅう、すー、しゅるる……と丁寧に丁寧にマッサージが施されていく。

 すりすり、ぎゅっ、ペタペタ。
 トコトコ、きゅっきゅっ、ぐりぐり。

 ここは疲れに効くんだよ、という言葉と同時にツボを押される。耳を掌で塞がれたり耳の縁をゆっくりなぞられたり、まるでマリチマが実際にキバナの耳をマッサージしているような錯覚に陥る。

『耳の穴近くのね、ここ。耳珠をね、優しくタッピングするよ』

 タッピングが始まった途端、更なるゾワゾワがキバナを襲った。これヤバい、とキバナはきゅっと唇を噛む。

(毎度思うが臨場感あるよな。バイノーラル録音、だったか? 音が立体的に聞こえるとかなんとか……)

 ASMR動画を視聴するようになって色々調べたのだが、人の頭を模したダミーヘッドと呼ばれるマイクが世の中にはあるらしい。それを使って録音すると、まるでその場にいるような臨場感溢れる音を収録できるそうだ。ヘッドホンやイヤホンで聴くとその効果はてき面に発揮される。これを、バイノーラル録音というらしい。

 そもそも、ASMRとは聴覚や視覚への刺激によって得られる反応や脳がゾワゾワする感覚のことだ。尚更バイノーラル録音と相性が良いのだろう。

マリチマもダミーヘッドマイクを使って配信しているんだよな? そうじゃなきゃ、こんなにリアルな音出ないよな)

 マイクもピンキリだが、中でもダミーヘッドマイクの値段はキバナの予想より高かった。一般人がおいそれと手出しできる代物ではない。配信で得られた収入でマイクを新調したと言っていたが、それでも限度はあるだろう。

マリチマは普段何をしてるんだろうな)

 そもそもどこに住んでいる人物なのか。
 性別は女性なのか。
 どんな仕事をしているのか。
 共に暮らすポケモンはいるのか。

 ネット上で活躍する人物が明かしていない情報を暴くのはご法度だが、気になるものは気になる。

 暴きはしないものの、それでも、妄想くらいはしてしまうもの。

 どんな顔なんだろう、と重くなってきた瞼を指で軽く押さえたその時だった。 

『ふぅ~』

 突然左耳から息を吹きかけられキバナは身悶えした。

「っ、くう……」

 静かに寝返りを打ち、早くなった鼓動を落ち着かせる。

(癖になる……)

 吐息がくすぐったくてたまらない。

『タオルでお耳をふきふきしてあげるね』

 考え事をしている間にマッサージが終わったらしい。『はーい、ゴシゴシ、ゴシゴシ~。綺麗にしてあげようね』の囁き付きというコンボ。ゾワゾワとした甘い痺れが脳内に広がっていく。

 そこからふわふわのタオルで耳を拭いたり、シャンプーをしたり、シャワーで洗い流したり、ジェルボールで耳を塞いだり、こんにゃくスポンジで耳を包んだりと癒しの時間が続いていった。

『大丈夫。大丈夫だよ』
『疲れちゃったら休んでいいよ。大丈夫。私が癒してあげるね』
『今日も頑張ったんだから、その分休んでぐっすり眠ろう? 眠れるまで傍にいるね』

 全てを包み込んで許してくれそうなマリチマの声が、キバナの心に染み込んでいく。

(そうなんだよ……、オレは、オレさまは……この声に、言葉に救われて……)

 自分だけに向けられたものではないと分かっている。この配信を視聴している不特定多数の誰かに向けてかけられたものだと分かっている。アイドルが「皆ありがとう!」とお礼を述べる時の、不特定多数の「皆」。夜空を見上げた時「星が綺麗だね」の「無数の星」。

(でもな、マリチマが心を込めて毎回励ましてくれているって分かるんだよ。だから、オレさまは――)

 睡魔はキバナの瞼に張り付いて目を閉じさせようとしてくる。マリチマの声を借りて「もう寝ようね」と眠りの世界に誘おうとしてくる。

(くっ……嫌だ、まだ寝たくない)

 眠らなくてはいけない。明日も仕事がある。けれども、もっとマリチマの声を聴いていたい。眠るための配信なのに、眠りに抗う。
矛盾した感情が、キバナの中に渦巻いていた。

『耳かきしよっか。今日はねえ、赤ちゃん綿棒を準備してみました。ちょっと高速で両耳からやってみようかな』
「あっ? っは……ヤバい、って……」

 キバナは思わず声を漏らした。ゾワゾワがいっそう激しくなり、気持ちよさが脳全体を駆け巡る。コシュコシュコシュ、と高速で抜き差しする音が途切れることなく続き、マリチマが『気持ち良いね』と優しく語りかける。

『ぐっすり朝まで眠っちゃおうね。おやすみなさい』

 とびきりの甘い声がトドメだった。キバナは白旗を挙げた。これはもう、眠るしかない。
 動画はあえてそのまま流した。眠っても再生が止まるよう、あらかじめタイマーをセットしてある。眠ってしまう最後まで、マリチマの声と、彼女が出す音を聴いていたい。

「……おやすみ。いつもありがとな」

 キバナもとろとろの甘い声でマリチマにお礼を言う。
 そして、抗うことなく眠りに身を任せた。

***

 キバナは膝枕をしてもらっている。そして、耳かきをしてもらっている。随分と手慣れている。

 右耳を上にしているので膝を貸しているのが誰なのかは分からない。

『痛くないですか?』

 声の主は砂糖。糖蜜。ホイップクリームいっぱいのケーキ。この世の甘さを凝縮した、キバナ好みの声。

 マリチマだ。マリチマが膝枕をして耳かきをしている。

 だから、すぐに分かった。

(夢だな、これ)

 実際のマリチマに会ったことなどない。だから、これは夢。キバナの欲望に忠実な夢だ。

 そもそもマイク越しの声しか聴いたことがないのだから、どこか彼女の声には現実味がない――いや、ここは夢であるから現実味といった言葉は滑稽なのだが。

『ねえ、痛くない? 大丈夫?』

 心配が声に滲み出ている。キバナが返事をしなかったせいだろう。

「悪い、考え事してたわ。大丈夫だ。丁度良かったぞ」
『本当? 良かった。じゃあ、左もやるからこっち向いてください、キバナ様。はい、ごろーん』

 ああ、夢だ。夢なのだ。夢でなければ、キバナの名前を呼ぶはずがない。

 ハンドルネームで投げ銭をしているのだから、キバナの名を知っているわけがない。そもそもキバナはマリチマの配信を見ていると公表していないのだから、知っているはずがない。

(混ざってる。混ざってるぜ、キバナ。オレさまを様付けして呼ぶのはジムトレーナーかオレさまの熱烈なファン)

 もしくはあの人。ナックルジムの事務員の――。

『キバナ様?』

 キバナはマリチマの言う通り、左耳を上に向けるように寝返りを打った。

 見たことのある服が視界に入った。

メリア

 少し視線を上に向ければ、こちらを覗き込むすっぴんのメリアがいた。

(可愛い。可愛いなあ、メリア

 キバナはメリアを驚かせないように身を起こした。
 正面から向き合った彼女はキョトンとした顔でゆっくり首を傾げた。

『キバナ様?』
「なあ、メリア。オレさまのお願い、ひとつ聞いてくれないか」

 キバナはメリアに触れたかった。
 彼女の声を一番傍で聞きたかった。

 心臓の音がうるさい。メリアの声が聞き取れないじゃないか。キバナは彼女に近付いた。

「オレさまにさ」

 その小さな唇で、呼んでほしい。
 触れたい。熱を感じたい。

 キバナとメリアの距離は3センチもなかった。

「――って言ってくれないか?」

 至極簡単で、難しい2文字をくれないか。

『ええ、キバナ様』

 メリアはキバナの耳に唇を寄せた。

『――ですよ』

***

 ジリリリ、ジリリリッ。

 朝を告げるのは、いつものスマホのアラームだ。

 ハッと目を覚ますキバナ。

「あー。良い夢だった……」

 おかしな夢でもあった。マリチマに耳かきをしてもらっていたのに、いつの間にかメリアに変わっていた。2人の声の系統が似ているせいだろう。

 夢の余韻に浸りたいところだが、いつものモーニングルーティンをこなさなければならない。

(その前にボールに入って寝ているポケモンたちを出して、ランニング、SNSの更新、あとは……あぁ……まだ眠い)

 緩慢な動作で起き上がったキバナは、ふと、違和感を覚えた。掛け布団の中の下半身に。

 嫌な予感がした。錆びついたロボットのようにぎこちない動きで掛け布団をめくる。そこで、悟ってしまった。

「クソ、やっちまった……ガキかよオレは……」

 早急に寝具とルームウェアを洗わなければいけない。下半身の不快さに顰めっ面をしながら、キバナはベッドから素早く降りたのだった。

***

「んん? 『241子ヌメラ』さんから投げ銭が来ているけれど……額がおかしくないかしら?」
「ちるー?」

 動画配信サービス「ポケチューブ」で配信をしているポケチューバー・マリチマことメリアは、昨夜の配信につけられたコメントを見返していた。

 気持ち良さそうに水浴びするヌメラをアイコンにしている「241子ヌメラ」はここ半年、毎回投げ銭をしてくれる常連なのでよく覚えている。

「前から尋常じゃない額を送ってくれる方だと思っていたけど……。1日の送金限度額5万円は驚いてしまうわね」
「ちるるー?」
「それに『いつもありがとう。そして心の底からマジでごめん』ってコメント、どういうことなのかしら」

 メリアはチルタリスと顔を見合わせ「分からないねえ」と首を傾げるのだった。

 ちなみにこの日から1週間ほどキバナから「このお菓子好きだったよな」と差し入れを貰ったのだが、理由が分からず、ただただ困惑するメリアであった。

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