戻ってきてほしいんだ - 1/4

 あー。自己嫌悪しかない。オレさまは最低な大人だよ。

 ん? なあんだよネズ、逃げんなよー。話を聞いてくれよ。1杯奢るって言っただろ。……1杯じゃ割に合わない? 分かったよ、3杯な。ほら隣座れって。

 オマエ何飲むの? オレさまが飲んでいる酒? 度数高いぞ良いのか? マスター、こいつにオレさまと同じやつ。

 オレさまさ、実は推している配信者がいるんだよ。ASMR配信をしているマリチマっていう……。ほう、知らない? これがポケチューブのチャンネル。アイコンはダミーヘッドマイクっていう、人の顔みたいなマイク……っておい。何で若干引いてるんだよネズ。違うって! エロいやつじゃない!

 確かに? ASMR動画の中には耳舐めとか? 生意気な妹とか? 気がありそうな耳かき屋さんロールプレイとか? ある意味狙っている動画はある。否定はしない。だけどさ、色んな道具使って良い音出そうと試行錯誤している人もいるんだ。マリチマがそうだ。

 あのな、マリチマは人を癒すためにASMR配信をやってんだよ。
 嘘か本当かは分からない。でもな、「ストレスで眠れなくて困っていましたが、お陰様で眠れるようになりました」とか「テストが不安で気持ちが落ち込んでいたけど、マリチマちゃんの配信で気分が楽になっています。いつもありがとね」ってコメントが寄せられているんだ。

 すげえだろ? 皆、マリチマに救われてるんだよ。

 それなのに、オレさまはあろうことか、夢の中に出てきたマリチマを邪な目で――いや、マリチマは顔出しはしていないんだ。動画では手くらいだな。じゃあ何でマリチマって分かったかって?

 いや実はだな、その、うちのジムの事務員がマリチマの声にめちゃくちゃそっくりなんだよ。普段はマリチマの声に似ても似つかない。メロンさんのポケモンみたいな、こおりタイプじみた声なんだが……。ふとした瞬間、マホイップのクリーム並みに甘い声になるんだよ! そのせいでマリチマとその事務の子を混同して……、夢の中で欲望を――ああそうだよ! 夢の中でマリチマと事務の子を足した感じの娘とエロいことした!!

 ……ああ、うん。そう。だから自己嫌悪に陥ってんだよ。夢とはいえ2人をそういう目で見たのはオレさまの中では許せないことなんだ。

 まず推しのマリチマな。オレさまはマリチマを推してるんだ、純粋に。所謂ガチ恋勢ってやつじゃないんでね。

 オレさま、実はマリチマの配信に助けられたクチなんだ。一時期、眠れなかった時期があってさ。そう、ブラックナイトの。ムゲンダイナがいたのはうちのジムの地下プラントだったから、ネット上で色々言われた……って、まあこの話は今度な。長くなるし。

 とにかく、マリチマは推し。感謝と尊敬の念を抱きこそすれ、恋はない。だから性欲を向けるのはないだろ。ナシなの、オレさまの中では!

 それからメリア。あ、メリアはそのうちの事務の――って、何でネズがびっくりしてんだよ。何でもない? 酒が思ったよりも回った? 大丈夫かよ。あんま無理すんなよな。

 で、メリアメリアうちのジムで働いてもらってんだ。職場の人間に夢の中でエロいことした罪悪感がヤバいんだよ。いくらマリチマの顔を知らないからって声の似ているメリアに重ねるのは……ナシだろ。な? ナシだよな? おい、ネズ。気持ち悪いって言うなよ! オレさまだってそう思ってんだよ~!

 声が推しに似ているからって気になり始めんのはナシだよなあ!?

***

「ええい。引っ付いてこないでください、鬱陶しい」

 ネズは心底嫌そうに肩を組んできたキバナを引き剥がした。

「薄情者」
「薄情者で結構です」

 キバナは力なくカウンターに突っ伏してめそめそと泣き始める。泣き上戸かとネズはしかめっ面になったが、キバナはすぐに起き上がって「マスター、何かおすすめある? 酔いたい気分でさ」と酒を注文するではないか。その横顔はけろりとしており、噓泣きであることを物語っていた。

「もうおれ帰っていいですか」
「え~。帰るなよ~。まだ飲み足りないし語り足りないんだよ~」
「だから引っ付かないでください。おまえはナックルシティで大人しく飲んでいればいいものの、どうしてスパイクタウンのバーにいるんですか」

 ネズがキバナに会ったのは偶然だった。曲作りの息抜きとしてふらりとバーに立ち寄ったところ「おお、ネズ! 久しぶり!」とヌメラのような笑顔を浮かべるキバナが手を振っていた。予想外の先客に回れ右をしかけたネズだったが、哀れキバナに捕まってしまい、彼の話を延々と聞かされる羽目になったのだった。

「だってオレさま有名人だろ。ナックルシティでゆっくり飲める所なんてねえよ。あることないこと書かれるぜ、マスコミに」
「スパイクタウンだったら彼らもそうそう来ないって?」

 スパイクタウンはナックルシティと比べたら寂れている。バーに訪れる客も少ない。

「そうは言ってないだろ。個室のある店で飲むっていうのも手だけど、そういう店じゃなくて、ここみたいに丁度良く息抜きできる場所が良いんだよ。管巻いても全て受け入れてくれそうな、ここが」

 キバナはにへら、と笑ってカウンターを軽く叩く。

「それにオマエの作った歌にバーが出てくるじゃん。歌詞的にここかなーって寄ってみたら大当たり。ネズが来るんだものな」
「……おれの歌をよく聴いてくれているようでドーモ。サインいりますか?」
「いいねえ! さすが『哀愁のネズ』! でも色紙がないんだよな」
「そのお高そうなアウターに書いてやりますよ、油性ペンでいいですか」
「そうなるともう一生洗えないなあ。お。マスター、油性ペンある? 水性ペンは勘弁な。ネズの貴重なサインが落ちちまう」

 グラスを磨いていたマスターは苦笑いをしている。ネズは溜め息をついた。

「今度から歌詞を書く時、気に入った場所は欠片も登場させないようにします」

 おまえのおもりなんてまっぴらごめんです、とグラスに残った酒を一気に煽った。

 結局ネズは帰らなかった。キバナが引き留めたというのもあるが、少々興味深い話を聞いたからのようだ。

「今年のビッグニュースに匹敵しますよ、おまえに推しがいるとはね。どっちかというと、おまえは推される側の人間でしょう。トップジムリーダーという肩書もありますし」

 キバナはガラルのジムリーダーの中で一番ポケモン勝負が強く、魅せる試合をする人物だ。温和な雰囲気から一転、試合時はドラゴンが吠えるような雄々しいパフォーマンスで見せるのでそのギャップでファン虜になるファンもいるし、SNSの更新で親しみを持つファンもいる(その分アンチも湧くし炎上もするのだが)。

「しかもASMRですか。おれはあれが苦手です。咀嚼音を聴くのはね……」
「いやいや、ASMRは咀嚼音だけじゃない。氷がたくさん入ったコップに炭酸水を注ぐ音、氷を削る音、ページを捲る音、パソコンのキーを叩く音なんてのもASMRにはある。マリチマは色んな音と出会わせてくれるすごい配信者なんだ」

 マリチマは日々良い音の出し方を研究しているようで「人がリラックスしている時はアルファ波っていう脳波が出てるらしくてね? どうすればこの配信で調べたことが活かせるか考えていて」と配信で話していたのを覚えている。

マリチマなら、このグラスの音も配信で使うんじゃないか?」

 キバナはグラスを軽く振って氷がぶつかる音を出した。

「そのマリチマという配信者は、随分真剣に音と向き合っているんですね。しかも人を癒す方向で音の研究をしているような?」
「そうなんだよ! チリーンの出す音を録音するためにわざわざ他の地方まで行くくらいだからな」
「へえ」
「だけど、マリチマの魅力はそれだけじゃない」

 キバナの目がきらりと光った(少なくともネズにはそう見えた)。

「なんてたって声、声だよ! あの声と音がマリチマの配信の肝なんだよ!」
「近寄らないでもらえますか、暑苦しくてかなわない」
「いいか、マリチマの声は囁きで真価を発揮するんだ」

 キバナはマリチマの声がいかに素晴らしいのか語り始める。

 甘くてふわふわでお菓子みたいでこの世の可愛いが詰まっている。

 マリチマがもしもポケモンとして生まれていたらフェアリータイプ。

 あの「頑張ったね」を今すぐ聴いてくれ。着信音にしたいとどれほど思ったことか。

 オレさまは一瞬、あのダミーヘッドホンマイクになりたいと思ったが、さすがに気持ち悪いからやめた。

 アルコールを摂取したにもかかわらず彼の舌はよく回った。その声には熱が宿っていた。

 まるで限界オタクのようなキバナを最初は面白がっていたネズだったが、

「なるほど。分かりました。もういい、いいですこれ以上は」

 マリチマトークが1時間半を超え始めたところでストップをかけた。キバナはまだ語り足りなかったが、ネズのげんなりとした顔を見て反省した。己の推しトークに付き合わせ過ぎたらしい。

「キバナ、おまえ真剣に彼女を推しているんですね。そんなに早口で喋る姿を初めて見ました」
「当たり前だろ! オレさまはガチで推してる。メンバーシップも入ってるし投げ銭は毎回している。マリチマにお布施できるのはそれくらいなんだよ。あ〜、グッズ出してくれよな。個人らしいから難しいか……」
「『最後の門番』だの何だの呼ばれるおまえに意外な一面もあったものだと面白半分で聞いていましたが、まさかここまでとは……」

 ネズはカウンターに肘をつき、キバナの頭から爪先まで眺めて「なるほど?」と呟いた。

「はあ……、なるほど?」
「何だよ」
「真面目に健全にASMR配信をしている人間におまえはエロい目を向けて、夢の中であんなことやこんなことを……」
「ぐっ。……痛いところをついてくるなよ」

 キバナは拗ねたような表情を浮かべた。

「オレはマリチマをそんな目で見ていない! こ、今回はたまたまで」
「じゃあそのメリアって子に?」
「まさか! メリアマリチマに声が似ているだけだ」
「ほう? じゃあその邪な気持ちはどこから来たんですか? マリチマでもメリアでもないなら、どこから?」
「それは」

 どこからだ? キバナは反論しかけた口を閉じた。
 ニヤニヤと笑って、ネズはトドメとばかりに言った。

「オマエ、ガチ恋勢では?」
「は!?」

 キバナは愕然とした。【でんきショック】、いや【かみなり】に撃たれたような衝撃だ。

「何言ってんだよ! 違うって言っただろ!」
「恋してるよ、きっと。おまえの熱弁を聞いたら誰だってそう思います」

 好き、愛してるといった類の言葉を使わないラブレターを聞かされているようだった。ネズはやれやれと首を横に振った。

マリチマの声が好きだから、似ている声の持ち主が気になるんでしょう?」
「それはそうだろ。好きだから推してるんだ」
「いいや。キバナ、おまえは嘘をついてるよ。初恋はとうに経験済みでしょう? おまえのそれは、恋だよ」

 ネズはふっと笑った。

「詳しい事情は知りませんがマリチマはおまえを救ったんでしたっけ? ……救世主を崇拝こそすれ懸想する信者はいない。手が届かない人物だと頭で分かっているから、代替として職場の人間にマリチマを重ねているんでしょう」
「代替って……」

 もしもネズの言うことが当たっているのならば、キバナはメリアに相当失礼なことをしている。

(届かない人の代わりって、メリア自身を見ていないだろ、これ)

 頭を抱えるキバナを尻目に、ネズはぼそっと言った。

「知らんけど」
「おい!」
「最近知りましたが、ジョウト地方のとある街では、自信がない時とか断定を避けたい時に使うらしいですよ。使い方合ってますかね?」
「それこそ知らねえよ……」

 大きく肩を落とすキバナ。

「オレさまは、ガチ恋勢なのか……?」
「さあ? おれからはそう見えただけなので」

 面白いな、とネズは思う。キバナが「オマエと付き合いたい」と告白すれば9割方の女性はすぐに首を縦に振るだろうに。それこそマリチマのアカウントにDMを送ればあるいは……。いや、それはご法度だろう。いちファンとしてこの男はマリチマを推しているのだ。やすやすと垣根を越える真似はしないはずだ。

「まあ、人は欲と愛を切り離せるので。エロい目で見ているから恋しているというのは安直ですかね」
「オッマエはまたそうやってオレさまを混乱させることを……!」

 恨みがましいとばかりに睨むキバナの視線をいなし、ネズは酒を最後の一滴まで飲み干した。

「言ったでしょう。おもりはまっぴらごめんです。全部適当です。受け流していいですよ」
「……帰るのかよ」

 子どもが拗ねたような口調だった。ネズは肩をすくめる。

「最後まで付き合う義理はないでしょう」

 帰り支度を終え、ひらひらと手を振った。

「ごちそうさまでした。お陰様で良い詞が書けそうです」

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