不死鳥のごとく、燃え上がれ⑧

 心臓が譜面を無視して走り出してしまったようだった。
 スー、ハー、と大袈裟なほどの深呼吸を繰り返すが、乱れは収まりそうにない。

「前の人の歌、受けがよかったのかもな」

 店内の様子を覗き見て、男子学生が言った。

「出番、次だろ? ステージまで案内するな」

 扉をくぐった途端、騒がしさが押し寄せてきた。
 グラスが触れ合う音、客たちの談笑、シェイカーが打つ一定のリズム。
 続いて、濃いアルコールの香りがの鼻を刺す。慣れない匂いで、頭がくらくらしそうだった。

(お客さんが、たくさん)

 40席のうち、ざっと見て半分ほどが埋まっている。視界に入るのは男女様々な客だが、男性のほうが多いように見える。

「さっきの歌よかったなー」

 どこからか聞こえてきた声に、の心臓が大きく跳ねた。男子学生にも聞こえるのではないか、と慌ててしまうほどに。

(大丈夫、私は、やれる……!)

 は再び深呼吸をした。あー、と声を出して、喉の調子を確かめる。ここに来るまで念入りに準備はした。

(でも、失敗して……この雰囲気を壊してしまったらどうしよう……)

 指先が冷え切っていた。学校の発表会でも、ここまで緊張することはなかったはずだ。

……」

 男子学生は、遠慮がちにの細い肩を叩いた。

「君の歌声、よく通ってどこまでも伸びる。酒飲みたちの度肝抜いてやれよ」

 からの返事はない。
 男子学生は、緊張に呑まれそうなを見つめてから、「俺が偉そうに言えたもんじゃないけど」と、切り出した。

「……誰かひとりのために歌うってのは、どうだよ」
「ひとりの、ために……?」

 は思わず聞き返した。

「君が今日歌う曲、ラブソングじゃないか。なんか、気になる人がいるんだったら……その人に聞かせるつもりで歌えば、ちょっとは気持ちもラクになるんじゃない?」 

(誰か、ひとりのために……)

 不思議なほど、その言葉が、の心によく馴染んだ。
 思い返してみれば、流行歌の練習中は、ずっと、ただひとりを思って歌っていた。

 は目を瞑った。瞼の裏に、赤と白の髪を持つ、あの人の姿が映し出される。

 毎日好きだと伝えたあの人のために。
 コーヒーをくれたあの人のために。
 会いたいあの人のために。

 今日、無茶な依頼を受けたのは何故か。もちろん、クラスメイトが困っていたから、というのもあるが、チャンスだと思ったからだ。

(練習してきたあの歌を、ちゃんとしたステージで歌えるんだ)

 グリのために歌おう。
 
 そう決めたら、震えが収まった。
 そのわずかなほぐれに合わせるように、胸の中の風船が膨らみ始める。
 ふわりと浮き上がって、どこにでも飛んでいけるような――。

「チルルっ!」

 専用のベルトにつけたモンスターボールの中から、チルットが励ますように鳴いた。

 は目をゆっくりと開けた。

 男子学生が心配そうにこちらを覗き込んでいる。はくすりと笑って、

「あなたの言うとおりだわ。好きな人のために歌ってくる」

 と、宣言した。