緑間真太郎は、そのフラグを叩き折られる
緑間真太郎は、今日のおは朝占いで蟹座が3位であることを確認し、ラッキーアイテムの「飲兵衛トラさんシリーズの絆創膏」を妹から譲り受け、高尾和成が漕ぐチャリヤカーに乗って登校した。
「今日のラッキーアイテム、嵩張らないんだな」
ぬいぐるみ、狸の信楽焼き、びっくり箱、将棋の駒……等々、豊富なラインナップで攻めてくる。しかし、非常によく当たる占いなのだ。
「高尾」
「何だよ、真ちゃん」
教室へ向かう道すがら、緑間はいつになく真剣な顔でこう言った。
「今日、もしかしたら。もしかしたらの話だが、『キセキの世代』の誰かが俺に会いに来るかもしれないのだよ」
「はあ? 何で?」
「『蟹座のあなた。今日は、あなたにとってレアな人と会うことが出来るかも』とおは朝で言っていたのだよ。おは朝は絶対だ、外れることはない」
「それが、『キセキの世代』の誰か?」
「赤司か、紫原か。……それ以外の奴は都内だからいつでも会える。珍しい人ではないとして考えれば、妥当なところなのだよ」
「いやいや、中学の同級生とかさあ……」
どんだけ好きだよ、と高尾はその言葉を飲み込む。信頼というか、絆というか。それほど中学3年間が充実していたのだろうか。
「そっかそっか。まあ、来るとしたら放課後じゃね?」
「それは俺も思っていた」
「お、以心伝心ってやつー!」
「いや、違うと思うのだよ」
と、緑間は少し気にかけながら、難なく昼まで過ごした。
問題は、昼休みに起きた。
『こんにちは。初めてメールします。覚えているかな。です。黒子君に緑間君のアドレスを聞きました。
いきなりですが、緑間君。今日は会えるでしょうか。そちらに行って、以前貸してもらったハンカチをお返ししたいです。もし今日がダメなら、都合のいい日を教えて下さい』
緑間は携帯を開いて、たっぷり5秒は固まった。部活の連絡等が来てないか確認するために開いたのだが、思ってもみなかった人物からのメールに、雷に撃たれたような衝撃を受けた。
とは、インターハイ予選試合の際に黄瀬涼太と共に現れ、試合会場の客席で一緒に観戦した誠凛の1年生だ。黒子の友達で、黄瀬と知り合いの女子高生。あれから一度も会ったことはなく、容姿もぼんやりとしか思い出せないが、笑顔が印象的だったのは記憶している。
「真ちゃーん、飯食おうぜ……って、どうした?」
緑間が石のように固まっていることに気付き、高尾が目の前で手を振ってみせた。
「いや。何でもないのだよ」
「えっ、どこが」
「何でもない」
「マジで言ってる?」
絶対何でもないわけがない。高尾は怪しんだ。携帯電話に何かあるのだろうと察するが、さすがに人の携帯を覗き見するのは良くない。
「しーんちゃーん。教えてー」
「うるさい。何でもないと言っている!」
だから、緑間を問いただそうと試みるが、頑なに口を開かない。高尾の追及をのらりくらりかわしながら携帯を操作し、緑間はとうとうメールの件を話さなかった。
ただ、一言。「今日は部活に遅れる」とだけしか。
***
放課後。
緑間は、些か緊張した面持ちでを待っていた。待ち合わせ場所は校門前にしてもらった。初めは、わざわざ学校まで届けに来なくてもいいと断りのメールを返した。じゃあ、荷物を送るよとからのメールに大袈裟だと返し、ハンカチを返すために都合をつけて街で落ち合うのもおかしいので、結局校門前で妥協した。返してもらうだけなので、10分もかからないだろう。あちらの移動時間の都合で、結構待つことにはなるが。
部活への参加は遅れるが、そこは主将である大坪へきちんと断りを入れてある(例の1日3回の我儘の権利を行使した)。彼から詮索はされなかったが、
(高尾がしつこかったのだよ)
他校の女子と会う等と言えば、当然詮索してくるだろう。それに、出会った経緯を答えるならば、誠凛対桐皇の試合をこっそり見に行ったことまで話さなければならない。その試合は興味がないと言った手前、バレてしまうのは避けたかった。
ちなみに、緑間はメールが来るまで貸したハンカチの存在を忘れていた。は他校生だ。会う機会も滅多にないないので、ハンカチはあげるつもりで貸したのだ。それが、よりによって今日会うことになるとは。やはり、おは朝の占いは当たる。彼にとったら、は紛れもなくレアな人物なのだから。
(しかし、試合でもないのに何故、俺はこんなに落ち着かないのだよ。いや、試合でさえこんなに緊張したことは……)
不可解な気持ちに首を傾げ、彼は遠くの空を眺めた。夕方だが、陽が落ちるのは遅くなり、昼間のような明るさが続く。
「あっ! 緑間君、緑間くーん!」
ふいに、聞き覚えのあるソプラノが耳朶に届いた。
「久しぶりだね、緑間君」
「……か」
緑間が後ろを振り返った先には、誠凛の白いセーラー服に身を包んだがいた。あの試合観戦時より、少々大人っぽくなった気もする。髪が風にたなびき、それを掻き上げる仕草に、ドキリとしてしまった。
(……何なのだよ、今のは)
緑間は――、彼は今、着々とフラグを立てつつあった。電柱くらいある銀色の長い棒に、正方形の布が天辺に向かって揚がっていくところを想像して欲しい。運動会の開会式等で、「国旗掲揚」と言う言葉を聞いたことがあるはずだ。「君が代」の斉唱と共に、国旗がするすると揚がっていく様を、誰もが見たことがあるはずだ。――そんな風に彼はフラグを、と立てつつあった。
――名付けるならば、恋愛のフラグである。
「後ろの女子は、友人か」
「そうだよ。ひとりだと心細いから、ついてきてもらったんだ」
の背後にいた女子2人と目が合い、緑間は会釈した。向こうもそれに倣ったが、すぐに内緒話を始めた。「掲示版」「秀徳の」等と、きゃあきゃあと色めき立っている。教室でよく見る光景だった。ちらちらとこちらを窺い、すぐに内緒話だ。どうやら緑間の話をしているらしい。悪くは言われてないようだが、目の前でコソコソされるのは、あまりいい気分ではない。
「もう、2人とも。緑間君困ってるからやめなよ」
が友達を諌めた。顔に出ていたらしい。実際彼の表情は険しく、高尾がこの場にいたらからかう程だった。
「ごめんね。緑間君さ、ほら、えっと。有名な『キセキの世代』だったんでしょ? ここでも有名なエースさんみたいだし、えっと、その……緑間君、かっ、格好いいから……。2人とも嬉しくて盛り上がっちゃったみたいな……。あはは、ごめんね」
「そうか……。別に、気にするな。あのような視線は慣れているのだよ」
「ん、ありがとう。良かったあ」
格好いい。照れてつっかえながら発せられた言葉に、緑間は一瞬呆気にとられた。
動悸がする。胸を押さえた。
(何故なのだよ……)
本人の感情を他所に、例のフラグは立ちつつあった。脇目も振らずに天辺を揚がっていく。
「あ! そうそう。早く用事済ませちゃうね。これ、ありがとうございました」
は鞄からストライプ柄の紙袋を取り出した。緑色のそれは、男子が手に取っても自然な、可愛すぎないデザインだった。
「ちゃんと洗濯したから、安心して使って。それとね、クッキー焼いてみたんだ。手作りなの。……嫌だったら捨てちゃっていいから」
「クッキー?」
緑間は驚いて聞き返した。受け取った紙袋には、確かにハンカチ以外の重量がある。
「が、焼いたのか」
「うん。ハンカチだけ返すのも悪いなって思って」
はにかみながら答える。照れくさそうに添えられた指には、絆創膏が巻かれていた。
「待つのだよ。怪我をしたのか?」
「え、これ? そうなの、ちょっと指切ったんだよね」
「クッキーは包丁を使わないだろう?」
「これはね、お弁当。自分で作ってるんだ」
何かしてあげたい気持ちになった緑間は、あることを思い出した。ラッキーアイテムで持ち歩いていた「飲兵衛トラさんシリーズの絆創膏」をポケットから取り出す。
「使うのだよ。替えがあってもいいだろう」
「わ、可愛いね。鯛焼きをくわえたトラ……? 貰っていいの?」
「まあ、あまり枚数はないが」
「ありがとう。ハンカチといい絆創膏といい、緑間君って、女子力高いんだね」
それを言うなら、クッキーや弁当を作るお前の方が高いのでは、と緑間は思った。
「今もあの時も、本当にありがとうね」
「……、あれか」
あの時とは、インターハイ予選試合の話だ。劣勢だった誠凛の様子を見て、が「どうして黒子君は諦めないのか」と漏らしたところ、緑間が「黒子に諦めて欲しいのか。黒子のどこを見てきた」と諭したのだ。
「別に大したことではないのだよ。かつて共にプレイしたチームメイトを、誤解されたくなかっただけだ」
「ふふ、そっかあ。そうだとしてもね。私、緑間君のお陰で色々気付いたんだよね」
そのせいで泣いちゃったけど、と彼女はまた照れたように笑った。
「私も好きなこと、もう一回やろうって決めたんだ。そのきっかけになったのは、緑間君の言葉だったよ」
「確かに、前よりは幾分マシな顔になったのだよ」
「そう?」
「ああ。……生き生きしてる、と言うべきか」
「だったら良いなあ。何かに向かって頑張っている人って、眩しくてキラキラしてるもんね。私も、そんな風になりたくて」
話を聞きながら、彼は戸惑っていた。それに伴い、天辺を目指す旗のスピードも速くなった。
(今日の俺はおかしいのだよ)
彼は恋愛事に、とても鈍い。例えば、桃井が黒子に想いを寄せていたことを、緑間は見抜けなかった。黄瀬はとっくの昔に気付いたというのに。
そして、今、自身がに惹かれていることに気付いていない。
あの試合終了時、黄瀬が「もしかして緑間っち、さんのこと――」と呟いたのは、勘ではあったが、なんとなく緑間がに悪い感情はないと察したからだ。きっとが緑間と同じ学校に通っていたならば、フラグもとっくの昔に立っていただろう。
それに、は最近まで諦めるという選択をしていたが、中学時代は文章にひたすら情熱を注いでいたのだ。心の奥に燻った火種があることを、緑間はなんとなく感じとり、惹かれているのかもしれなかった。再びやる気になった彼女は、緑間の目には十分、キラキラ輝いているように見えた。
「また会えて良かったよ」
「そうか……。まあ、俺も――」
「ー! 早く早くー、クレープ食べに行くって約束でしょ」
と、の後ろで待っていた友達が彼女を急かした。
「あ、そうだった。ごめん、今行くねー! 緑間君も部活あるのに引き止めてごめんね。練習頑張ってね! それじゃ!」
「ま、」
待て、と引き止めたかった。
これを逃せば、もうとは会えない。
何故かは分からないが、それは嫌だった。
例の旗は、丁度天辺に届く。
「待――」
フラグが立つ、
その時。
「ちゃんー、あんまり緑間君と話してたら、カレシに告げ口しちゃうよー」
「そうよ、楽しそうに話してたぞ、浮気してたぞーって」
「なっ!? これはちゃんとテツヤ君に報告してるんだから、浮気とかじゃないよ!?」
緑間は固まった。石のように固まった。
――カレシ?
「テツヤ、……黒子?」
の口から出てきた名前に反応する。緑間の知る人で、その名を持つのはひとりしかいない。
「、」
「うん?」
は呼びかけに歩みを止め、振り向いた。
「カレシが、いるのか」
「うん」
「黒子なのか?」
「えーと……そうだよ」
彼女は急に顔を赤らめた。恋する乙女という言葉が相応しい。
「ついこの間から……って、こういうの、人に言うと照れくさいね」
フラグが、折れた。
天辺に到達する前に。
根元からぼっきり折れた。
折った主は――黒子だった。
「そ、そうなのか」
(何故俺は今、がっかりしたのだよ……)
見えざる空想世界で、今、自覚することもなかった恋愛のフラグは叩き割られた。ガラガラと崩れたフラグの残骸に、天辺を目指していたはずの旗が、風に煽られふらふらと着地した。……慰めるように。
ついでに「失恋フラグ」も立つことはなくなった。恋の自覚の前に「恋愛フラグ」が折れたので。
緑間は見事、という「一級フラグ建築士」の魔の手から逃れた。失恋の痛みを味わうとはなかったが、しかし、微妙にがっかりとした、何とも言えない苦味が残った。
「そうか。では、黒子に会ったら次の試合は負けないと伝えておいて欲しいのだよ」
「ん、いいよ? あ、せっかく知り合った仲だし、メアドは登録してても大丈夫かな?」
「……問題ないのだよ」
「良かった。じゃあ、またね」
「ああ。またな」
(または、もうないだろうな)
手を振る彼女に向かい、眼鏡のブリッジを押し上げ、緑間は思い出した。今日のおは朝の占いの続きを。
――蟹座のあなた。今日は、あなたにとってレアな人と会うことが出来るかも。ただし、この機会を逃すまいと焦った行動を取るのは禁物です。焦った結果、とんでもない事実を知ることになるでしょう。まずは情報収集を。ラッキーアイテムは「飲兵衛トラさんシリーズの絆創膏」です。
「やはり、おは朝は当たるのだよ」
***
その後、部活に遅れてやってきた緑間は、いつになく練習に打ち込んだ。部員全員に指摘されたクッキーのことは絶対に口を割らず、しばらく部活内で「緑間にカノジョが出来たのでは」という噂が流れ、本人に確認した高尾がデマだと証言した。
ちなみに。は材料も分量も間違えずにクッキーを作ったのだが、緑間には何故かしょっぱく感じたそうだ。それが涙の味なのかは、誰も知らない。