予鈴が鳴った。授業開始まであと5分。
騒がしかった2-Gの教室はふいに静かになり、皆席に着き始めた。まだ会話しているクラスメイトはいるけれど、気を遣って声を抑えている。
私も自分の席に座って教科書とノートを取り出す。そうだ、筆記用具。すぐに板書できるようにしよう。
「あれ?」
意気揚々とペンケースを漁っていた手が止まる。
「……忘れてきちゃった」
消しゴムがない。寮の部屋に置き忘れたんだ。
どうしよう、と口の中で言葉を転がす。
教室から寮に戻るのに、私の足では最低15分はかかる。どう考えても間に合わない。
この授業だけ消しゴム使わないで頑張ってみる? でも、これからは苦手な歴史の授業。たくさん間違える自信がある。
歴史を乗り越えても、次は数学。これまた苦手科目だ。きっと今日もたくさん計算を間違えて、机の上が消しゴムのカスまみれになるに違いない。
「どうしよう」
たかが消しゴム。されど消しゴム。
ノートが汚くなる覚悟で、午前の授業、乗り切るしか――。
「どうしたんだよ、さっきから」
「あ」
淡いブルーの瞳と目が合う。こちらを覗き込む、隣の席の男の子。
ペパーくんだ。
「何か困ってんのか?」
「……えと、その……」
男の子と話すのは慣れない。緊張してしまう。元々、話すのは得意じゃないんだ。女の子ならもう少し上手く話せるのに。
えーと、その、しか喋らないから、焦れたのだろう。ペパーくんは眉間にちょっとシワを寄せた。
「……何もないならいいぜ。お節介だったよな」
あ。また私、同じことを繰り返しちゃう。いつもそうなんだ。せっかく話しかけてくれたのに、もじもじして、相手の気分を悪くさせちゃう。
せっかく新しい土地に越して来たのに。
新しい学校に通うことになったのに。
今までの自分から変われるかなって思ったのに。
これじゃあ、前の所と同じだ……。
私は咄嗟にペパーくんのシャツの袖を握った。
「ち、がう……。その、……忘れてきちゃって」
ごくん、と唾を飲み込む。
「……っ。消しゴム……忘れて。その、困ってて」
「消しゴム?」
ペパーくんは怪訝な顔で訊き返した。
「オマエ、ノートはアナログ派?」
「う、ん……」
アカデミーにはタブレットとタッチペンでノートを取る生徒もいる。
「わ、私。パルデアに、越してきたばかりで。向こうは鉛筆とか紙の、ノートで……。こっちのが、慣れてる、から……」
「あー。オマエも転入生だっけ。ふうん……」
ペパーくんは私をじろじろ眺めながら、「オドオドちゃんだな」と呟いた。
そして、机に置いていた黄色の筆箱のジッパーを開け、「ん」と消しゴムを私の机に乗せた。
「やるよ。新品」
「えっ!?」
「そろそろ替え時だと思って、昨日購買で買ったんだ。オレはまだこれあるし」
チビて丸まった消しゴムを取り出し、笑う。
「じゃ、じゃあ、あの、そっち、……私に……」
「いいから使えよ。な」
「でも」
ちょうど授業開始のチャイムが鳴り、同時に担当の先生が教室に入ってきた。
「やあ、貴様たち。昨日より1日分古くなったな」
慌てて私は教卓に体を向けた。
「今日は前回の続きからだ。心して聞くように」
パルデアに引っ越してきたばかりなので、この地方の歴史がイマイチよく分かっていない。一言一句聞き逃してなるものか。きゅっと口を引き結んで鉛筆を持つ。
すると、ふはっ、と隣からペパーくんの笑い声が聞こえてきた。何か面白いもの、あったのだろうか。不思議に思ったけれど、私は授業に集中するために、じっと前だけを見続けるのだった。
***
午前の授業が終わったあと、私は【でんこうせっか】で購買へ駆け込んだ。
買ったのはもちろん、消しゴムだ。
そして、マルノームみたいにお昼を胃へ押し込め、【しんそく】を使うルカリオのように2-Gの教室へ戻った。
ペパーくんを捜してみるけれど、まだ教室にはいないようだ。
「昼休み、まだ30分は残ってる……」
食堂、家庭科室、校庭、寮の部屋……。生徒たちは各々好きな場所で自由に過ごす。ペパーくんだって教室から離れるくらい、予想がついただろうに。急いで戻ってもタイミングよく会えるかなんて分からないのに。
どうして、私って、鈍いんだろう。
だから、あっちでも、皆から「似てないね」って言われるんだ。
私も2人みたいにバトルが強かったらよかったのに。
才能ってやつが、私にはきっとないのだろう。
あ、ダメダメ。ネガティブ禁止。
ぶんぶんと頭を横に振って暗い気持ちを吹き飛ばす。
とりあえず自分の席に着いて、これからのことについて考えてみる。
「とにかく、ペパーくんにお礼、しなきゃ」
午後の授業は自由科目。ペパーくんは同じ授業を取っているだろうか。隣の席なら話しかける難易度はぐっと下がるけれど、そうじゃない場合はどうしたらいいんだろう。
探す、話しかける、お礼……。やることがたくさんある。工程が多い。私にとっては、暴れるケンタロスを素手で止めるくらい難しい。……でも、サウロ先生なら止められそうだ。あんなに筋肉があるんだもん……、なんちゃって。
「――オレがどうしたって?」
「あっ、……わ、あぁ、ペ、ペ、ペペペ、っパ……?」
右側から動揺が稲妻のように走り、心臓を揺らした。
声が裏返って舌が上手く動かない。
くだらない妄想をしている時にペパーくんに話しかけられて、上手く言葉を返すことができなかった。
「大丈夫かよ、転入生……。オレの名前噛みまくりちゃんだな」
「ごめ、急、に声、かけられてびっ、びっくり、して……、ペ、ペパーくん……」
「あー。そっか。なんか悪かったな?」
片手を顔の前に持ってきてごめん、というジェスチャーをするペパーくん。別に、ペパーくんが謝る必要はなかったのに。悪いのは勝手に驚いた私なんだから。
机の中から教科書を取り出して次の授業の準備をするペパーくんを眺めながら、私はなんとか呼吸を落ち着かせる。この流れなら、言える。大丈夫。
「――ペッ、ペパー、くん」
出だしから声が裏返ってしまった。
「ん?」
ペパーくんは何故か笑いを堪えているようだった。気になる。けど、今は、お礼。
「消しゴム、新しいの、買ったから、これ、返す」
ポン、とペパーくんの机に購買で買った消しゴムを置く。
「すごく助かった。あ、ありがとう……」
言えた。よかった。ちゃんと言えた!
兄さん、言えたよ!
緊張から解放されて、安心感に包まれる。私の相棒、もふもふしたい。いや、あの子はもふもふする毛はないのか。こう、概念的な、もふもふだ……。
「わざわざ新しいの買ってきてくれたのかよ。使った方返すので――いや、返さなくてもよかったんだぞ?」
「それはダメ!」
私はペパーくんの方に身を乗り出した。
「だって、私、こう、楽しみを、奪っちゃったわけだから……」
「楽しみ?」
「うん。消しゴムの、角を使う、楽しみ」
「カドぉ?」
ペパーくんは瞬きを繰り返す。
私は何度も首を縦に振った。
「うん。あれ? あ、新しく消しゴム買った時、角使えるのワクワク、し、ない……? 結構特別な感じ、しない……?」
ペパーくんは天井を見上げたまま、動かなくなった。あ、でもよく見たら全身が小刻みに震えている。
あれ? 笑って、る?
「ペパーくん?」
「っ、くくくくっ、ふっ、くっ。そうかもな、うん」
ひとしきり笑ったペパーくんは、大きな黄色いリュックを漁り始めた。
「なあ」
「う、うん」
「……新しいノート使う時、妙に気合い入ってキレイな字で書くよな?」
「分かる! でも、ページが進むにつれて汚くなってくんだよね……!」
「あるある。すげー分かる」
そう言って、ペパーくんは私の机に何かを乗せた。
「あー。……急に笑って悪かったな。これ、お詫びにやるよ」
「これって……?」
「ミントキャンディ。気分転換したい時に舐めると、結構いい感じなんだぜ。午後の授業は眠くなっちまうのもあるあるちゃんだろ」
ニッと笑うペパーくん。
「わ、すごく、分かる。……うん、お昼ご飯食べると、眠くなるの……!」
爽やかなグリーン色の包み紙を手に取り、私も笑う。
今日1日で、クラスメイトといっぱい話せた!
心の中は、ポケモンたちとキャンプしてる時みたいに晴れやかだ。
「あ、ありがと、ペパーくん。これ食べて、午後も頑張るね」
ペパーくんから貰ったキャンディを早速食べてみる。
口の中に広がる爽やかな風味。
私の頭の中に、新緑に佇むウールーの群れのイメージが浮かんだ。
ミントキャンディのお陰なのか、午後の授業は眠くなることなく乗り越えられたのだった。
【終】
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